カードキーを落として20分かけて歩いた帰路を30分かけて遡った人間

知識をひけらかしている時の自分というものはとても見ていられない。


自分が知っているようなことは相手も知っているはずだと(まったく意識せずに)前提を立てている。まず補足なしに話し始めて相手の様子を見てようやく、必要と判断した補足を付け加える。この補足がスマートにできないことが問題だ。ひけらかしているように思える。


気の置けない友人との会話中にひけらかしが発生したので恐る恐る尋ねてみると、ひけらかしているようには思わなかったらしい(この友人は基本的に余計な世辞を言わない部類の人間であると数年の付き合いの中で認識しているので、一旦額面通りに言葉を受け取ることにする)。


仮に全ての他人が私の吐き出す補足をひけらかしだと思わないとしても、自分で自分が気に食わない。ひけらかしている。『ひけらかす』の響きはこれほどまでに美しいのに気に食わない。鳥の名前みたいで良いと思う。そういうところも気に食わない。


こういった心情を他者に少し吐露すると『自己肯定感』というワードが向けられる。専ら低い方として。この『自己肯定感』という言葉の意味、というよりこれを用いる人の意図をずっと理解できずにいる。


一度この言葉について調べてみたことがある。わからなかった。辞書的な意味ではなく意図を探ろうとすると諸々の言説の曖昧加減に目が滑り続けた。ひろく用いられる『自己肯定感』は本来とはずれている云々、自己愛とは異なるなどなど。諸説に埋め立てられるかと思った。ちょっと埋まった。

 

 

こうして自省らしきことに立ち入るたび、セーブポイントよろしく毎度結論づけているのだが、私は自分のことが大好きだ。とても魅力的だと思う。魅力たる点をほとんど認識しているところも魅力的だと思う。このことを発信する環境を慎重に選んでいるのは、ナルシストだと思われたくないからとかではなく、『自分を魅力的だ』とする確信同様にあらゆる他者にとって『私は魅力的ではない』という確信が等しく存在するからだ。恐れず雑に要約すると『てめえにおれの魅力がわかるわけあるか』ということだ。ナルシストなうえにエゴイストである。当然これも自分にとっては魅力的だ。嫌になる。

 

ときどき不思議に思うのだが、私には前半部分に登場したような気の置けない友人(ダチ)が数名いる。かれらに対する限りない親愛と喜びと末永く幸福であってほしいという気持ちが大半を占めると同時に、わずかながら得体の知れない恐ろしさを抱いている。

 


とは言いつつ、そんな恐れを抱く必要があるほど自分が特別な性質を持った何者かではないことも承知している。そもそも別に知識をひけらかしてもいいと思っている。ひけらかして何が悪いんだ。事実は自分と友人が大好きだということだけで、それ以外は仮説の域を出ない。

諸説に埋まり続けている。