いつでも外に出られるよう準備を済ませておいた。
どこに行くつもりなのか、何をするつもりなのか、なにもかも見当がつかない。
鞄の中に荷物を詰めた。鞄の中に詰めたものが思い出せない。
鍵は鞄の内側にあるジッパーのついた小さなポケットに入れた気がする。
外に出て鍵をしめるタイミングで取り出すのだから、コートあるいはズボンのポケットにでも入れておけばいいのに。
そうだ。いつもそういうことを考えていた。外に出る時がきたらきっと、いつも通り鞄を開いて、ジッパーを開けて、鍵を出して、鍵を閉めて、鞄を開いて、ジッパーを開けて、鍵を入れて、ジッパーを閉める。
きっとそういう動きをして、『そういうこと』を考える。『コートあるいはズボンのポケットに入れればよかっただろうか』と思いながら、ドアノブを引っ張って施錠を確認する。気が済むまで6回はノブを捻って引っ張る運動をした。
私は依然部屋の中にいる。外に出る準備は整っている。おそらくそうだろうと思う。
カーテンレールの余ったピンを数える。乱視のせいか途中でわからなくなる。きっと数えることに飽きたのだ。部屋は広くも狭くもない。
この身体、が、動いている。動かしているという意識が希薄である。ずっと前からそうだった。確かに私の指は私が思い浮かべた言葉を書き、あるいは打ち込む。口であれば語る。リアルタイムで言葉を発することは難しい。
しかしながら、それとは別の引き出しに存在し続ける問題として私は私の字を、声を、自分のものだと思えない。語彙選択におけるオリジナリティの問題ではない。ネットスラングも構文(この『構文』もスラングだ)も、自分のものでない言葉であることには違いないが、今持ち出した問題とは決定的に階層が異なる。
階層が異なるという感覚。これは現状私の意図を表した言葉として、私の近くにある。
だがまだ自分の言葉ではない。近くにはあるが決定的な差異がある。ごく薄くほとんど透明な皮膜が重なってできた層ぶんの差異。
そして今、外にいる。きっと部屋にいることに飽きたのだ。
鍵をかけたことを確認したか、覚えていない。鍵はコートのポケットに入っている。