算数の難問

病院に来ている。

診察室は薄暗く、長椅子の背もたれと壁との間の床に敷かれた間接照明が、ぼんやりとした暖色の光を天井に向かって吐き出している。

 

一定のリズムで水滴がシャーレに落ちる。東急ハンズの実験器具コーナーで売っていそうなインテリアだ。温かみのある照明といい、きっとこれ以外にも心療内科ならではの心を落ち着かせる細工が部屋じゅうに巡らされているのだろう。

 

しかしながら自分は、幼少期から一定のリズムで肩をトントン叩いてあやされたり、アナログ時計の秒針の音を聞くのがひどく不愉快だったのでまったくの逆効果である。

 

 

馴染みの問診を終えて、処方箋を持って隣接する薬局に入る。年末ということもあって次回の通院まで日にちが空くから、当然薬の量も日数分いつもより多い。

今までは2週間毎の通院で大体800円。今回は5週間空くから単純計算で2000円くらいか。

 

ひとつ、気がかりがある。実を言うと病院に着いた時から思っていたことだ。

先ほど診察分の精算をして、財布の中に1621円が入っていることを確認した。病院は現金払いがルールになっている。

 

単純計算の値に足りてなくない?キャッシュレス慣れとシンプル貧困のダブルパンチが見えない角度から見えない臓器に刺さった気分だ。

 

まだ希望を捨ててはならない。病院が現金払いだからといって薬局も同じとは限らない。

弱った声でヘラヘラと受付の方に「ちょっとコンビニで現金おろしてきます」と言う事態にならない可能性を信じるのだ。キャッシュレス決済ができる可能性、あるいは5週間分の薬が1621円以内に収まる可能性を。

 

そうだ。「こうなったらどうしよう……」と悩み考えを巡らせているときほど案外その手前の段階で解決するものだ。これまでの人生を振り返ればそんなパターンばかりだったじゃないか。

 

幼い頃から何事にも当事者意識に欠け、俯瞰ぶって脳内に複数の未来を並べ立てる癖から咄嗟に最悪を想定する動きが染み付いた杞憂の権化たる我が精神活動においては、想定よりもあっけないオチを迎えることが頻発してきた。

 

眼球の奥がざわめく。

単純計算で2000円だぞ?所持金に収まる線は消した方がいいのでは?

この薬局が隣の心療内科と提携しているなら現金払いの可能性が高いのでは?薬局と病院って提携するの?薬局って何?薬局のシステムを知らないのに提携とかそれっぽくもないことを思い浮かべるんじゃあないよ。

 

ぐるぐると頭の中でこのような文字が不規則にうごめいている。何かお腹すいてきた。

その時、自分の前の順番で待っていた患者が「一括でお願いします」と言った。

確かに言った。

 

視界が晴れる。眼球の奥もとい頭の中でざわめいていた文字の群れが減る。クレカが使える。

正直、医師の診察を受けているときよりメンタルが前向きになった。嬉しさのあまり『味楽る!ミミカ』のテーマソングを歌いかけた。

声は何とか喉の内側に押し留めたが、手は止められずちょっと踊った。嬉しい。クレカ使える。

 

 

そして自分の名前が呼ばれた。いつもの倍膨らんだ袋を受け取って会計に向かう。薬剤師は言った。「980円です」

 

1600円どころか1000円でお釣りが来た。

こういうときは案外手前の段階で解決するものだ。