あまりにも平凡な

とにかく文字を打ち続けてみる。少したりとも手を休めることがあってはならない。どうしても気に入らなければあとから消せばいいだけのことだ。

 

何かしてから消すのと、はじめから何もないのとでは大きく意味合いが異なる。側から見れば同じことであってもだ。客観の欠如なのか自己肯定の高さなのか、どちらも違うように思える。なぜ雨が降った翌日の晴れ空はこんなにも鬱陶しく感じるのか。

 

しまった、と口に出したくなるほどの後悔が押し寄せる。これはやりすぎだ。言うに事欠いて天気の話とはあまりに芸がない、と反省をしかけたがすぐにやめた。これは日記(というか日々の愚にもつかない思考の写し書き)で芸事じゃない。生涯目標リストにこっそりと『紙の本出版する』をやたら右上がりの字で書いている人間なら少しはその意識があってもよさそうだとは思う。思うのだが。


それに、天気の話題を糾弾する流れはもはや旧時代の価値観ではなかろうか。いいじゃないか、天気の話。最近夜はめっきり冷えるだとか昨日と比べて最高気温がどうだとか、話してみれば存外に楽しいものだ。

 

夢の話もすればいい。夢の話が厭われる理由は概ねオチがなくてどうでもいいというところだろう。でもでもだって。他人の夢の話はどうでもいいからこそ価値がある。どうでもいいところにその真価があるんじゃないのか。

 

そもそも私とその交友関係は喋りを生業とする界隈ではないのだから、オチだのサゲだのを意識するのも不要なわけだ。

いや、本来不要な夢の話に価値を感じるのであれば、オチを目指した話も評価してしかるべきではないか?そもそも『本来』という語を用いるのであれば『本来』必要な話題とは何だ?

 

 


指が止まる。ここまでは平時からほとんど無意識に至る領域なのだが、このあたりの疑問に対する答えを出しきれていない。

 

考えたつもりになって『すべての話題は本来不要なものだ』『そもそも生命活動において会話というものは云々』といった結論もどきを叩きつけて無理矢理にこの思考部屋から出たこともあるが、一日と経たずにドアを開いて同じ部屋に戻ってきてしまう。


おそらく、再びゆるやかに動き出した指でもって鍵盤を打つこの回、今日の日記でも結論は出ないままだろう。何よりいけないのは、結論なんか出なくてもいいじゃないかと頭のどこかで思っていることだ。

 

正直言って結論は出なくていい。ただしそれは、死ぬ間際まで考え続けたうえで結論が出なくても落ち込む必要はないということであって、『結論を出さなくていいと思うこと』は悪い。悪いと言ったが、善悪というより在り方の問題としてだ。

 

これは冒頭の、最も物事を考えずに打ち込んでいたあたりの文章と結び付けられる。何も思いつかないなりに打ち込んだ文章を消すことと書かないことは意味合いが異なるという話だ。

 

真新しい発見でも何でもないがこれには大きな意味がある。なにしろ、どうでもいい話と結びついたおかげで冒頭のどうでもいい文章を消さなくてよくなった。