少し練習すれば文章の仕事も可能と言ったライターの顔を見ぬまま

大学で文章演習という授業を受けていたことがある。正確な名前ではない。こういうところに性格が出るもんだ。

話を戻す。美術科で、普段はデザイン史や工芸の授業がほとんどだったため文章や法学といった専門外の授業は珍しく、未就学児の頃から国語もとい文章を見聞き書くのが好きだったことも相まって毎週楽しく受講していた。

 


カリキュラムの前半は言葉の言い換えや敬語表現といった構成要素の知識を増やす勉強からはじまり、後半では今までの人生で乗り越えてきた困難だとか印象深い食べ物について指定された文字数の範囲で書くといった課題が出る授業だったと記憶している。

学期末の最終授業日は、本職のコピーライターを招いて添削を受けるという内容だった。僕は欠席した。

 


欠席したのだ。病欠ではない。講師との血で血を洗う激論を交わしたわけでも、自分の文章をプロに見られるのが恥ずかしいなどという立派な自意識に苛まれて休んだわけでもない。

うまいことやればウミガメのスープのクソ問くらいにはなりそうだ。(国語が好きでそれなりに得意だと自負している大学生がかれにとって大事な国語の講義を欠席した。なぜだろう)

クソ問にもならなかった。そしてまた話が逸れた。

なぜあんなことが起きたのか、いま一度振り返ってみることにする。

 

 

 

まず申し開きを試みるならば、講師側の都合で休講にする日があるという予告が初日から散々なされていた。

その“正しい”休講の日はカレンダーを確認して理解していたので、暇になった午前中は20分かけてアイスコーヒーを淹れたり、近所の駐車場に落ちている裏返ったロールパンみたいな石を見に行き、このうえなく充実した時間を過ごすことができた。

 


次回の最終授業日までは、特に指示されたわけではないが感情表現用語辞典を読み耽ったり、課された小論文も滞りなくメール提出し、順調な学生生活を送っていたといえる。

 


そして翌週の最終授業日、なんか休講だと思って忘れていた。

 


『なんか休講だと思って忘れていた』これが理由だ。

 


念の為もう一度書いておく。なんか休講だと思って忘れていたから欠席した。

 


改めて考えると申し開きを試みる権利がまるでない。

今でも原因がまったくわからない。なんか休講だと思いこむことが一般的にどの程度起こりうることなのかは知る由もないが、少なくとも僕は初めてのことだったのでそれはもう面食らった。

 


授業が終了した日暮れの頃に講師から『本日の講義で使用した資料です』と丁寧な解説付きのメールが送られてきた瞬間、事態を理解した。

そうじゃん。先週休講になって休んだわ。つまり今週は授業だ。しかも最終回、さいすh

え???逃した?無遅刻無欠席が学生としての数少ない取り柄なのに????

 


このように軽いパニックを起こしながら、震え過ぎて静止した指にキーパッドを押し当てて返信する。「すみません。授業があることを忘れていました。資料を直接取りに伺うので都合の良い日時を教えてください。本当に申し訳ありません」

ビビる。だってふつう生徒からこんなメールが送られてきたら確実にサボりだと思う。この際サボりだと思われるのは仕方ない。嘘だと思われてもいいから直接謝罪と後悔を示したい。

 


己の愚かさを他者に申し開くことで自責の念を軽減させんとするその利己心の浅ましさに我ながら嫌気がさすが、純度100%の自責を溜め続ける勇気もなかったので数週間後に大学まで懺悔に赴くこととなった。

 


そこからはもう特に書くことがない。案の定講師は優しかったし、少なくとも表面的には過失であったことを信じてくれた。

それまでの授業で提出した僕の作文を見た現職ライターがよく褒めていたことも教えてくれた。尚更辛かった。

 

 

 

あれから暫く経つがいまだに後悔は消えない。

こんな小さなことでここまで大騒ぎできるなんて幸せな奴だと言われそうだが、自分にとっては幼少期に手のひらを火の中に突っ込んだことよりも大きな事件だった。両方犯人僕。

 


これがあってから、文章を書き続けねばという意識がより深いところに染みついた。別に何も起こらなくたって書くことに変わりはないし、書きたい意志があるから書いているのであって誰かや何かに責任の所在を押し付けようとか微塵も思っちゃいないのだが、苦ではないむしろ有り難さすら感じる強迫観念が常にある気がする。

繰り返しになるがこの強迫観念は悪いものではない。できれば忘れることなく抱いていきたいと思う。

 


就寝のために布団入ってから冷蔵庫が閉まっているか確認するのに4度起きたり外出に際して靴履いてから冷蔵庫確認しに行くのやめたい。この強迫観念は悪い。なくなってほしい。