元気になったらピュレグミを食べたい

風邪をひいている。

引いている。

引いている?

風邪というカードを?


風邪を引いている。常に痰が絡んでいるし鼻も基本的に片方、寝ているときは両方詰まっている。それらとは関係なく足の小指の付け根の皮は剥けている。痛い。


二日ほど続いた微熱はアクエリアスと11時間睡眠がやっつけてくれた。平熱になってからは一層喉の痛みが気になるようになったが、風邪薬を飲めないままじきに一週間経つ。最近はセロなんとかという錠剤を服用していて、ほかの薬を飲んでいいのかわからなかったし調べる気力も起こらなかったのだ。

 


そういうわけでヴィックスキャンディを舐めている。デフォルトのトローチと低果汁ぶどうジュースを混ぜた味だ。


ヴィックスキャンディ。言いたくなる。ヴィックスもキャンディもそれぞれ魅力的な響きを持っているから、合わさったヴィックスキャンディは凄まじい音色に感じる。舐めよう、ヴィックスキャンディ。不味いぜ、ヴィックスキャンディ。


飴は口に入れた瞬間噛み砕く主義を掲げているため、たまにこうして指定医薬部外品・ザ・ヴィックス=キャンディのような製品を舐めているとどうにも落ち着かない。あと普通に飴が好きじゃない。口の中にずっと物があるの何かイヤ。


しかしながらヴィックスキャンディのおかげで少しずつ喉が回復している気がする。ありがとう、ヴィックスキャンディ。

最寄りのドラッグストアはポカリよりもアクエリの方が安価

体調が悪い。

 

何年も前から、目を覚ましてベッドから降りると何処かしらの関節が痛いし、気圧次第で頭痛はするし、人の多い電車に乗れば貧血で視界がホワイトアウトする。心療内科に通い出してから幾分ましになったとはいえ、ふと終わりたくなる欲求は常に胃の底に潜んでいる。

 

しかし、今日に限ってはそうではなく(それらでもあるが)、発熱・咽頭痛・咳がメンバーの基本に立ち返った風邪に見舞われている。

 

ここで体調管理の至らなさを論って自己嫌悪に陥るのは簡単だが、逆張りオタクの性がそれを許さない。つくづく自分の逆張り精神は自己愛より自己愛的だ。

 

あと、なぜか足の小指の裏の付け根がパックリ剥けていて痛い。すごく痛い。

体調を慮ってゆっくり湯船に浸かるその前に身体を洗っていた時に気づいた。すごく痛い。眠い。寝る。

瑣末な流れ、衝撃のラスト

体力を使い果たした。ここ1週間とそれ以前の生活リズムがかなり異なっていたため、無意識に疲弊を成していたらしい。

電車を降りてからの帰路で何か長い長いひとりごとを発していたような気もするが、帰宅した途端に室内の空気に紛れて溶けていった。夢の内容と同じで、時間が経てば経つほど朧げになる。


そういえば新年だ。

今日の昼間は元旦と元日の定義を覚えられないということを考えていた。これまで何度か調べてそのたびに忘れている。一向に定着しない。これも朧げな記憶だが、夢やひとりごとと違って明確な答えがある。


どちらかが数日間を指す言葉だった気がする。元旦の方じゃないだろうか。

そう思っていると、『旦』の字は日が昇る様を模ったものだという記憶が呼び起こされた。じゃあ元旦は日が昇る時間、つまり1日の午前中を指す言葉なのではないか?そのような気もしてきた。元旦は1月1日の午前中、元日が1月1日いっぱいを指す。


いや、旦の字の由来はデマではなかったか?そんな気もする。漢字の由来に限らず、それっぽい説ほど虚偽で、真相は腑に落ちないものだということが往々にしてある。

 

 

調べたくない。ブラウザで検索すれば2秒でわかる、ということをわかっている。

しかし調べたくない。


どうせまた忘れるのだ。なぜならどうでもいいから。元日が24時間で元旦が12時間だろうが元旦が旧正月のことだろうが元日がかつて『はじめぴ』と呼ばれていようが、確実にひと月と経たないうちに忘れる。

 

あれ

旧正月っていつのことを言うんだっけ?

そういえば『旧』と『旦』、似てない?

あと、このブログ1月2日に上げようと思っていたのに下書き消去して書き直したせいでもう1月3日になってない?

書き直してこれ?

はじめぴ?

 


>「元日」は「一年の最初の日」のこと。 つまり「一月一日」のことです。 一方、「元旦」は「元日の朝」のことです。「 旦」の字は地平線から昇ってきた太陽をかたどっています。

引用:https://weathernews.jp/s/topics/202312/270165/


ちょっと当たってちょっと外している。たいして面白くもねえ。また忘れるわ。

 

 

ちなみにGoogleで『はじめぴ』を検索すると梶裕貴がAIと結婚生活するというドラマがヒットする。

算数の難問

病院に来ている。

診察室は薄暗く、長椅子の背もたれと壁との間の床に敷かれた間接照明が、ぼんやりとした暖色の光を天井に向かって吐き出している。

 

一定のリズムで水滴がシャーレに落ちる。東急ハンズの実験器具コーナーで売っていそうなインテリアだ。温かみのある照明といい、きっとこれ以外にも心療内科ならではの心を落ち着かせる細工が部屋じゅうに巡らされているのだろう。

 

しかしながら自分は、幼少期から一定のリズムで肩をトントン叩いてあやされたり、アナログ時計の秒針の音を聞くのがひどく不愉快だったのでまったくの逆効果である。

 

 

馴染みの問診を終えて、処方箋を持って隣接する薬局に入る。年末ということもあって次回の通院まで日にちが空くから、当然薬の量も日数分いつもより多い。

今までは2週間毎の通院で大体800円。今回は5週間空くから単純計算で2000円くらいか。

 

ひとつ、気がかりがある。実を言うと病院に着いた時から思っていたことだ。

先ほど診察分の精算をして、財布の中に1621円が入っていることを確認した。病院は現金払いがルールになっている。

 

単純計算の値に足りてなくない?キャッシュレス慣れとシンプル貧困のダブルパンチが見えない角度から見えない臓器に刺さった気分だ。

 

まだ希望を捨ててはならない。病院が現金払いだからといって薬局も同じとは限らない。

弱った声でヘラヘラと受付の方に「ちょっとコンビニで現金おろしてきます」と言う事態にならない可能性を信じるのだ。キャッシュレス決済ができる可能性、あるいは5週間分の薬が1621円以内に収まる可能性を。

 

そうだ。「こうなったらどうしよう……」と悩み考えを巡らせているときほど案外その手前の段階で解決するものだ。これまでの人生を振り返ればそんなパターンばかりだったじゃないか。

 

幼い頃から何事にも当事者意識に欠け、俯瞰ぶって脳内に複数の未来を並べ立てる癖から咄嗟に最悪を想定する動きが染み付いた杞憂の権化たる我が精神活動においては、想定よりもあっけないオチを迎えることが頻発してきた。

 

眼球の奥がざわめく。

単純計算で2000円だぞ?所持金に収まる線は消した方がいいのでは?

この薬局が隣の心療内科と提携しているなら現金払いの可能性が高いのでは?薬局と病院って提携するの?薬局って何?薬局のシステムを知らないのに提携とかそれっぽくもないことを思い浮かべるんじゃあないよ。

 

ぐるぐると頭の中でこのような文字が不規則にうごめいている。何かお腹すいてきた。

その時、自分の前の順番で待っていた患者が「一括でお願いします」と言った。

確かに言った。

 

視界が晴れる。眼球の奥もとい頭の中でざわめいていた文字の群れが減る。クレカが使える。

正直、医師の診察を受けているときよりメンタルが前向きになった。嬉しさのあまり『味楽る!ミミカ』のテーマソングを歌いかけた。

声は何とか喉の内側に押し留めたが、手は止められずちょっと踊った。嬉しい。クレカ使える。

 

 

そして自分の名前が呼ばれた。いつもの倍膨らんだ袋を受け取って会計に向かう。薬剤師は言った。「980円です」

 

1600円どころか1000円でお釣りが来た。

こういうときは案外手前の段階で解決するものだ。

これは友達の話なんだけど

いつでも外に出られるよう準備を済ませておいた。

どこに行くつもりなのか、何をするつもりなのか、なにもかも見当がつかない。

鞄の中に荷物を詰めた。鞄の中に詰めたものが思い出せない。

鍵は鞄の内側にあるジッパーのついた小さなポケットに入れた気がする。


外に出て鍵をしめるタイミングで取り出すのだから、コートあるいはズボンのポケットにでも入れておけばいいのに。


そうだ。いつもそういうことを考えていた。外に出る時がきたらきっと、いつも通り鞄を開いて、ジッパーを開けて、鍵を出して、鍵を閉めて、鞄を開いて、ジッパーを開けて、鍵を入れて、ジッパーを閉める。

きっとそういう動きをして、『そういうこと』を考える。『コートあるいはズボンのポケットに入れればよかっただろうか』と思いながら、ドアノブを引っ張って施錠を確認する。気が済むまで6回はノブを捻って引っ張る運動をした。

 

 

私は依然部屋の中にいる。外に出る準備は整っている。おそらくそうだろうと思う。

カーテンレールの余ったピンを数える。乱視のせいか途中でわからなくなる。きっと数えることに飽きたのだ。部屋は広くも狭くもない。


この身体、が、動いている。動かしているという意識が希薄である。ずっと前からそうだった。確かに私の指は私が思い浮かべた言葉を書き、あるいは打ち込む。口であれば語る。リアルタイムで言葉を発することは難しい。

しかしながら、それとは別の引き出しに存在し続ける問題として私は私の字を、声を、自分のものだと思えない。語彙選択におけるオリジナリティの問題ではない。ネットスラングも構文(この『構文』もスラングだ)も、自分のものでない言葉であることには違いないが、今持ち出した問題とは決定的に階層が異なる。


階層が異なるという感覚。これは現状私の意図を表した言葉として、私の近くにある。

だがまだ自分の言葉ではない。近くにはあるが決定的な差異がある。ごく薄くほとんど透明な皮膜が重なってできた層ぶんの差異。

 


そして今、外にいる。きっと部屋にいることに飽きたのだ。

鍵をかけたことを確認したか、覚えていない。鍵はコートのポケットに入っている。

「歯並びもよくはないですね」

きゅうりを食べないまま一年が終わろうとしている。

少し考えて、夏に野菜漬けの具として入れて食べたことを思い出した。

出されれば問題なく食べるし、一生食べられないとしても諦めがつく。好きでも嫌いでもない距離感の食材だからか、限りなく記憶のなかでの存在感が薄い。


そういえば今月は歯医者に行った。生まれし時から最近まで歯医者に行かない日々を過ごしていたので、初めてピアスを開けたときの心持ちで診察を受ける。

 

結果として歯医者はめちゃくちゃ面白かった。謎の機械で歯と歯茎の間を刺されるの楽しい。紙コップ置いたら自動で水が出てくる機械、超イカす。うがいしたら血出るの面白い。毎週行きたい。そして普通に歯周病だった。緑色の歯ブラシを貰った。


それに引き換え心療内科は全然面白くない。2分で終わるうえに、あれだけ楽しませてくれる歯医者より診察代が高い。あと薬の名前が怖い。駅から遠い。診断書出ない。

腑に落ちず、通院(2分)の帰りに診察とほぼ同じ値段で映画を見る。首が飛んだりたくさん血が出て面白かった。満足だ。

しかし歯医者は映画にも引けを取らないくらい面白いから凄い。

 

次回の予約は再来週。待ち遠しい。

真実のコーヒー

いいコーヒー豆を買った帰り道で野犬に遭遇する。

アパート名が刻まれた看板の下半分が錆に覆われているコーポなんたらと、おそらく今後も開くことのないたばこ屋のシャッターとの間、表通りと裏路地を繋ぐ細い道の奥にその動物はいた。


空は珍しく晴れ渡っていたが建物に挟まれた道は日中も暗く、四足歩行と天に向かってピンと尖った耳のシルエットが認識できる程度だった。私はそれが幻覚であることを知っていたので、躊躇いなく裏路地に入り込む。


裏路地は寒い。野犬はとうに四角いマンホールの形状に戻っていたので、一瞥して踏まないように気をつけながら駅に向かう道を辿る。幼少期に何度か行った児童書専門の小さな本屋が更地になっていた。


コーヒー豆が入った紙袋を持つ左手を握り込み、その存在が確かであることを何度も確認する。音が鳴る。質量がある。300グラムプラスパウチの重み。

 

 

数十分前、コーヒー豆を3種類買って店内で一杯飲み、衝撃を受けた。人生最高の味と言ってもいい。その証拠に、店を出てから存在しない動物や道をよく見るようになった。おいしいものには幻覚作用がつきものだから疑問は全く無いのだが、帰路に往路の倍近い時間を要していることには少しばかりの落胆を抱く。


かれこれ20分ほど駅までの道を彷徨っている。もう少しで駅に着くだろうと思ったところで見たことのないコンビニを発見する。また道を間違えたらしい。

スマホの時刻表示も3分戻って7分進むのを繰り返しているから正確な所要時間はわからない。ふつうなら焦るだろうが、今日は他に予定もないので問題ない。ゆっくり帰ろう。

 

 


そういうことがあって、何とかたどり着いた家で後日おいしいコーヒーを飲んでいる。本当にいい豆だ。

 

もしかすると、そういうことはなかったかもしれない。