アップルパイのキッチンカーがある町

その日は電車に乗って目的地に向かう用事があった。利用したことがない路線に恐れをなしつつ身体を電車に乗り込ませる。

車内は空いていた。環境音が少ないことを確認してイヤホンを外す。目的の駅までは10分もかからない。

 

本を読む気にもSNSを漁る気にもならず、ぼんやりと車内を見る。視界がほどけてきた。こういうときは大抵最近のスケジュールや今月のスケジュールや年末のスケジュールについて頭が勝手に考え始める。

 

 

かつてないほど病院に通った1ヶ月だった。今月に入って特別不健康になったというわけではなく『ひょっとすると人間は健康な方がいいのではないか?』『自分って病院に行った方がいいのではないか?』と思い始めて実行し始めた秋だった。


ここ数年、病院と縁遠い生活を送っていたため自分の生活に“科”が現れて戸惑う気持ちがある。この数週間の間に“整形外”と“心療内”に数回行った。来週から“歯”も加わる。“眼”にも行きたい。


無意識に『行きたい』と書いたが、いま挙げたどの“科”にも行きたくて行っているわけじゃない。病院は嫌いだ。なんでこんなに金かかるんだ上等な身体だなと思いながら歯を食いしばって金を払っている(そして歯を傷める)。

 

 

電車が停まる。駅名を確認して降りる。ポケットの中をまさぐりながら歩く。

改札にポケットから取り出したSuicaをかざすが、反応しない。残高はまだ余裕があるはずだから別の理由だろう。窓口らしきものは改札の外だがチャージ機の横に係員呼び出しボタンがあったので、押す。


程なくしてチャージ機の横にある壁に埋め込まれた細い板が開いて、帽子を被った細身の青年が細い窓から顔を出す。

改札が反応しない旨を伝えてSuicaを手渡すと、細い青年は細い窓の奥に引っ込んでいく。


気になる。なんでこんなに細い窓なんだろう。細すぎる。こんな細い四角が窓口を繋ぐ扉だなんて思いもしなかった。

 

こんなに細い窓なら、窓口対応をする職員も全員細いのだろうか。入社試験で細い窓をくぐる試験があるかもしれない。きっと入社時にくぐれても、時間が経って体型が変わって細い窓をくぐれなくなったら別の部署に異動になったりするんだろうな。

 

 

「これで通れると思います」

細い青年がSuicaをこちらに向けていた。

改札を出た。

降り立った町は少しリンゴの匂いがした。

ピザも食いたい

冬に塗れていく。

道を歩く。吐く空気にも吸う空気にも秋が存在していない。


先々月からのつきあいになる右手首の痛みは依然続いている。快方に向かうどころか、患部を庇った影響か痛みは肩口や左手首にまで及んだ。痛み止めの効きも悪くなった。歯止めが効かない。無力を文字通り痛感する。


足を進めるたびに体温が奪われていくのを感じ、抵抗しようと一人で喋る。喋ることで体温を上げる計画だ。

予定を喋る。今月も映画を見に行くとか、映画の前に珈琲豆を調達したいとか、他愛がどこにも見当たらない言葉を空気と一緒に吐いている。


じつは体温を上げるばかりでなく、常に雑然とした頭の中を少しでも整頓したくて喋っていた。しかし寒い。言葉が出てこない。だから余計寒い。


寒いと考えが止まる。言葉も止まる。正確にいえば言葉は発し続けているものの、同じところをぐるぐる回り続けている。その回転が段々と小さくなってきて、同じ同じ同じところを同じように繰り返している。


ため息が白くなるほどではない。実際それほど寒くはないのだ。落ち着かない精神が侘しさを呼び起こして体感温度にまで影響しているのだろう。


ついに全てが止まる。息をしているのかすらわからない。ただ一つだけの思考が残った。迷わず口にする。

 


「あ〜〜〜パソコンかiPad Air(M1チップ搭載)買いてぇ」

レントゲン写真はかっこいい

いつの日からだろうか。万全の体調で目覚める朝が来なくなって久しい。そもそも人間の体調に万全なんてあったのかさえ疑わしいほど毎日身体のどこかが痛い。ある日は腰、ある日は足首、翌る日は側頭部といった具合に。

 


そんな日々のさなか、右手首の筋に違和感を覚えて少なくとも1ヶ月が経過した。

激痛ではないし常時の痛みでもなかったから無視を決め込んでいたが、ひと月も続くとこの痛みが生涯の相棒になる気配を感じ始めたので、病院に行くことにした。


病院で簡単な問診をしてレントゲンを撮ったが原因はよくわからなかった。手を使う作業が多いから腱鞘炎かと思っていたがそうでもないらしい。


原因は不明だが痛みがあるのは確かなため、とりあえず痛み止めを山ほどもらった。飲み薬と貼るタイプが各1種類と、塗るタイプが2種類。なんでこんなに多いんだろう。


そういうわけで痛み止めを貼ったり塗ったりした部分を保護するため、ここ数日間は右腕に包帯を巻いて生活している。

 


他の人がどうかは知る由もないが、自分の場合体調が悪いときほどテンションが上がる傾向にある。精神と身体でバランスをとっているのだろう。よくできたシステムだ。

 

 

 

ある日の夕方、アルバイトに行くと気さくな社員Dさんが右手首に巻かれた包帯を見るなり「リスカ?」と言ってきた。

普段はその軽妙なノリに根暗な僕は圧倒されがちだが、今日はひと味違う。何しろ普段以上の体調不良に気分が高揚している。


「だとしたら(包帯)巻くの左腕じゃないですかwww」

我ながら咄嗟に出たにしては巧い返しだと思った。

全然ウケなかった。

というか滑った。

変な空気になった。

最悪だった。

 


なぜウケなかったのか、考えられる原因は5つある(手首の痛みの原因は1つもわからないのに)。

①僕の利き手が右だということを社員Dさんが知らなかった

②自分で自分のジョークに笑う意識の低さに憤慨していた

リスカについて明るく喋らないほうがいい

④面白くない

⑤嫌われている


いずれにせよ己がジョークセンスの不甲斐なさに落胆し、その日は若干痛みが穏やかだった。

病院に行ってから1週間経ち、痛み止めも飲み続けているがこの日の落胆以上に効いたことはない。

やはり精神と身体のバランスをとっているのだろう。本当によくできたシステムだ。

思い返すと笹に近い香りだったかもしれない

平日昼下がりのフードコートにも高校生やビジネスパーソンらしき人々は存在する。会社や学校が休みだとか休憩とかサボタージュとか、理由は個々人によりさまざまだろう。


レジ付近のモニタに番号が表示される。赤と黄色が目に眩しい壁を傍に、これまた赤と黄色が印刷された紙、に包まれたジャンクフードを受け取る。マクドナルドのスパイシーチキンバーガーだ。あとチョコパイとコーヒー。


僕がマクドナルドでよくスパチキを注文するのは安いからじゃなくて旨いからだ。

そうは言っても同価格で発売されたチキチーやスパビーが呑まれた値上げの波をくぐり抜けてきたのは栄誉なことだし、値上げした日にはまず間違いなく枕を濡らす。きっとそう遠くない未来の話だ。


それにしても、と小声でわざとらしく仕切り直しの言を放つ。人の少ない平日だから許される行為だ。(人が多かろうと公共の場で一人言を発することはままあるのでそういった性質であることは否定できない)

それにしても、映画上映に遅刻したショックを断ち切れない。

 


概略はこうだ。

次の休日は朝から映画を見に行こうと息巻いて予定を立て、上映数日前からチケットを取り、前日に上映時刻とそれに伴う電車移動のスムーズな便の検索を行い、予定通りの時刻に起床し、朝食を摂り、駅に向かい、予定通り乗車した電車の中で上映時刻を2時間過ぎていることに気づいた。


幸いにも見たことがある3時間の映画だったので終盤の⅓は見れたものの『予定通りに動いていたつもりが、そもそも立てた予定が狂っていた』ことに驚いてしまって、自己嫌悪らしい罵詈雑言が頭を駆け巡った。2時間前に上映開始したチケットを見せられた映画館スタッフの困惑する表情が忘れられない。


スタッフはかなり戸惑ってもはや半分フリーズしていたので、こちらから「ややこしくてすみません。もう始まってるやつです」と言ったことも覚えている。

内心、臓器の天地がひっくり返るほど焦りを抱えているのに『ええ、まあ、もう始まってるやつっすね。え、なんか変なこと言ってます?』みたいな顔をして言ったから余計困惑させたかもしれない。しかも別にややこしくはない。僕が時間を間違えただけだ。

あのときのスタッフの方、ごめん。


過ちを繰り返さないように記憶しておくべきではあるのだが、あまりに強い『2度としてはならない』は生活に支障をきたす強迫観念になりかねないので注意が必要だ。具体的には、うっかり冷蔵庫を開け放しにして20分を過ごしていた後悔から『閉めなければならない』に迫られて、何度も確認しに行くせいで外出や就寝に遅れが出るケースがそうだ。


ちなみにこれほど強迫観念行動が発生しているのに、少なくとも以降3回は冷蔵庫開け放しをやっている。だからあまり意義のある感覚とはいえない。

 

そして数日後、遅刻した前回よりは遅い午前中に映画を見に行く予定を立てた。前日は当然強迫観念の暴動が巻き起こっており、何とも賑やかであったが無事に予定通り起床し、朝食を摂り、駅に向かい、電車に乗って予定時刻の2時間前に映画館へと到着した。適度という概念を知らない可能性がある。

 

 

そんな映画騒動を振り返っているうちに、紙ストローがアイスコーヒーを吸収してふやけてきたのでカップから引っこ抜く。

芯棒か何かに細長い紙を巻きつけて製造しているのだろうか。巻きつけたときに重なるか重ならないかの境界線上らしき跡の線が滲んで、ストローそのものの輪郭までぼやけているようだった。


ついさっきまでそれが刺さっていた、プラスチック製のカップのプラスチック製の蓋を見る。何かが間違っている気がしてならない。

ならないが、今になって紙ストローの是非について論を展開するほど浮世離れもしていないので、おとなしく蓋を開けてコーヒーを啜る。

ファストフード店のアイスコーヒーは水のように薄いため胃に優しい。途中でミルクポーションを入れなくとも胃痛に苦しむことがない。

 

 

 

と、マクドナルドにいた日のことをタリーズで振り返るうちに、ホットで注文したはずのコーヒーが冷めてしまった。半分ほど残ったコーヒーにセルフサービスのミルクを注いで飲み干す。受け取ったときから特徴的な香りがすると感じつつも、終ぞ何の香りかは判別できなかった。

 


来月も新たに見たい映画が上映開始する。

できることなら上映の30分前くらいに到着したい。

洗い物が面倒なので持っていない

作業中や移動中はスマートフォンでラジオも聞くが、古いWALKMANで音楽を聞くことが多い。少し前に叔父から譲り受けたそれを使い始めてから、以前までなぜかSONYに抱いていた恐れのイメージがやや軽減した。今はドミコの『hey hey,my my?』がアルバム通りの順番に流れている。


たいてい便利で良いものとして重宝している。ひとつ気になることを挙げるとすれば、使い出して半年経っても電源を切るボタンがどこなのか知らないままだ。

電源をつけるにはどこかテキトーなボタンを押せばいいが、切るボタンはあるのかないのかもわからない。時間経過で勝手に画面が消えるので、とりあえずよしとしている。


とはいえ、実のところ本当は電源ボタンがあるのかもしれないと疑ってもいる。

いや、ひょっとすると僕が知らないだけでSONY製品には基本的に電源ボタンが搭載されていないのかもしれない。SONYくらい先進的な企業ならあり得ることだ。

果たしてそれって先進的なんだろうか。


電源(以下も『電源を切る』の意味)ボタンがないテレビを想像してみた。しばらく触っていないと勝手に画面が消える仕組み。しかし実家のテレビは東芝だが勝手に電源が切れるシステムだった気がする。

おそらく東芝のmp3プレイヤーにも電源ボタンは無い(ないしは極めて見つけにくい)のだろう。


電源ボタンがない扇風機を想像してみた。エアコンの想像に至らないのは金がなさすぎてエアコンのことをよく知らないからだ。サヨリの部屋の異様に小さいエアコン以上の知識がない。つまり何にもない。

なんにせよ時間経過で勝手に止まる扇風機はかなり困る。労力をかけたくないから冷房をつけるのに、勝手に止まられてはつけ直す手間で苛立ちと暑さが増しそうだ。


電源ボタンがないミキサーを想像してみた。餃子のタネを作るために肉と野菜を入れる。スイッチを押す。

肉と野菜が細断され攪拌される。ちょうど良い荒微塵切りになった。止めたい。止めるスイッチがない。

しばらくして時間経過でミキサーが止まる。生肉スムージーが完成した。

飲んで2日後、目が覚めると白い部屋にいた。

 

 

SONYの人に会ったら、できれば電源オフのボタンは付けた方がいいと思う旨を伝えたい。

変な味の酒と味のしない酒

大抵の日において20時を過ぎてから帰路につく。その日は雨が降ったり止んだりしていたから、傘を差したり閉じたりしながら夜の空気の中を歩いていた。

路に人通りは少なく、寄り道をしなければめったに人とすれ違うこともない。たまに遭遇する生き物といえば鼠か、路上に座り込む若者の小さな群れか、光る首輪をつけた犬とその飼い主くらいだ。


帰宅し、扉の内側から施錠を済ませると溜め息が出る。首元を光らせながら舌をだすあの柴犬を見られなかったことが残念だからではない(見れた方が嬉しいに決まっている)。

朝食用のシリアルを買うだけのつもりでスーパーマーケットに立ち寄ったところ、思いのほか鞄が重たくなってしまったのだ。


シリアル、牛乳、酒を鞄から取り出していく。最後に、ありふれた黄と赤のシールで奇跡のような値を貼り付けられたパックの牛脛肉を調理台に乗せる。

変な色をしている。奇跡の値段ならではの独特の色味だ。


冗談かと思うほど金がないのに映画も観たければ本も積みたいしコーヒーとビールはストックしておきたいしタバコも必要だから、必然的に平日の食費が圧迫される。

飲食の“飲”だけで生きられるように進化しないだろうかと常々思っている。

まったく現状の世の理では、肉体の維持につとめなければ精神も死んでしまうことが厄介だ。そうでなければ辛苦の2割は解決しそうなのに。


浅慮から抜け出さないまま井の底で希望に見えるだけの不明瞭な何かを眺めていても仕方がない。まずは手の届く範囲、具体的には目の前にある変な色の肉を煮込んでビーフシチューのようなものを作ることにする。


パック全体に引っ掛けられたラップを剥がして顔に近づける。色はともかく匂いは問題なさそうだ。鼻は五感のなかで最も自信のない器官なので相当に程度の低いザル検査ではあるが、やらないよりはマシだろう。

時刻は22時に差し掛かろうかという頃。変な色の肉を鍋に入れて火にかける。油は敷いたかもしれない。


冷凍庫のなかを探ると、変な色になるまで炒めた玉ねぎの集合体があったので、ラベルにバルサミコと書かれた酢と一緒に鍋へ入れた。酢は大抵変な匂いがするので単体では苦手な食材だが、入れた方が段違いに旨いのだから不思議だ。


安物赤ワインの開栓に手こずる。安物のコルク抜きだからかもしれないし、僕が稀代の不器用だからかもしれない。6分ほどかけて栓を抜いた。疲れた。


奮闘している間にすっかり玉葱塊は解凍したようだった。瓶を傾けてしょっぱそうな赤色の酒を注ぐ。グラスにも注いで少し飲んでみた。


変な味がする。

このぶんだとどうせ飲まないので再度鍋へ、気持ち多めに注ぐ。


1人テキサスホールデムをしながら肉とかが煮込まれている様子を窺い、デミグラス缶を開けて逆さにするとソースが缶の形に固まりながら出てきた。なんか嫌だった。


10分ほど経ち、肉の色はすっかり落ち着いて半固形ソースも溶けた。そうしたら、間違いなく健康を害する量の塩と、床に落ちているよくわからない瓶入りのスパイスも大量に入れておく。原理は不明だが、塩とスパイスを入れるとだいたい味がまとまる。


随分前にカルディで購入した発泡酒の缶を開ける。


プルタブが割れて開かずの蓋になってしまった。どうも開栓に手こずる日らしい。


仕方がないので工具箱からマイナスドライバーを出してきて釘の要領で打ち込み、穴を開ける。缶切りという最適解を選べるだけの装備は持ち合わせていなかった。


グラスに注ぐ。注ぎ口の形状からかなり最悪の見た目になってしまったのでとりあえず動画を撮った。うみばる(@seabarubaru)で10月16日0時50分に投稿した動画を見てほしい。何度でも。


もちろん音も臨場感があって最悪だったので是非入れておきたかったのだが、既に酔っているのではないか?と疑われそうな僕の笑い声も入っていたので割愛した。

 

ビーフシチューは旨かった。

酒は味がしなかった。

来月も映画を観に行く。

あまりにも平凡な

とにかく文字を打ち続けてみる。少したりとも手を休めることがあってはならない。どうしても気に入らなければあとから消せばいいだけのことだ。

 

何かしてから消すのと、はじめから何もないのとでは大きく意味合いが異なる。側から見れば同じことであってもだ。客観の欠如なのか自己肯定の高さなのか、どちらも違うように思える。なぜ雨が降った翌日の晴れ空はこんなにも鬱陶しく感じるのか。

 

しまった、と口に出したくなるほどの後悔が押し寄せる。これはやりすぎだ。言うに事欠いて天気の話とはあまりに芸がない、と反省をしかけたがすぐにやめた。これは日記(というか日々の愚にもつかない思考の写し書き)で芸事じゃない。生涯目標リストにこっそりと『紙の本出版する』をやたら右上がりの字で書いている人間なら少しはその意識があってもよさそうだとは思う。思うのだが。


それに、天気の話題を糾弾する流れはもはや旧時代の価値観ではなかろうか。いいじゃないか、天気の話。最近夜はめっきり冷えるだとか昨日と比べて最高気温がどうだとか、話してみれば存外に楽しいものだ。

 

夢の話もすればいい。夢の話が厭われる理由は概ねオチがなくてどうでもいいというところだろう。でもでもだって。他人の夢の話はどうでもいいからこそ価値がある。どうでもいいところにその真価があるんじゃないのか。

 

そもそも私とその交友関係は喋りを生業とする界隈ではないのだから、オチだのサゲだのを意識するのも不要なわけだ。

いや、本来不要な夢の話に価値を感じるのであれば、オチを目指した話も評価してしかるべきではないか?そもそも『本来』という語を用いるのであれば『本来』必要な話題とは何だ?

 

 


指が止まる。ここまでは平時からほとんど無意識に至る領域なのだが、このあたりの疑問に対する答えを出しきれていない。

 

考えたつもりになって『すべての話題は本来不要なものだ』『そもそも生命活動において会話というものは云々』といった結論もどきを叩きつけて無理矢理にこの思考部屋から出たこともあるが、一日と経たずにドアを開いて同じ部屋に戻ってきてしまう。


おそらく、再びゆるやかに動き出した指でもって鍵盤を打つこの回、今日の日記でも結論は出ないままだろう。何よりいけないのは、結論なんか出なくてもいいじゃないかと頭のどこかで思っていることだ。

 

正直言って結論は出なくていい。ただしそれは、死ぬ間際まで考え続けたうえで結論が出なくても落ち込む必要はないということであって、『結論を出さなくていいと思うこと』は悪い。悪いと言ったが、善悪というより在り方の問題としてだ。

 

これは冒頭の、最も物事を考えずに打ち込んでいたあたりの文章と結び付けられる。何も思いつかないなりに打ち込んだ文章を消すことと書かないことは意味合いが異なるという話だ。

 

真新しい発見でも何でもないがこれには大きな意味がある。なにしろ、どうでもいい話と結びついたおかげで冒頭のどうでもいい文章を消さなくてよくなった。