だから僕はメンクリをやめた(前後文脈無し)

曇り

 

サボテンが植った鉢4つと、カーテンレールに取り付けられたサイズ違いの裸電球が11個。
そういった内装のカフェに来ている。

 

消しては戻してを繰り返していたアプリを改めてインストールする。このアプリは消してもすぐに元の形に戻る。だからきっとまた消すことになる。

 

ある一つの考え方について、を考えようとした時。頭の中では同時に言葉の揚げ足取りが始まってしまう。言葉で表現できることの限界(ここで主語を忘れて自らに揚げ足を取られる)に打ちのめされている。

 

『打ちのめされている』は自分の言葉じゃない。あまりに淀み無く締めくくりを務めたこの言葉はどこかで見た表現を模倣している。

 

他のすべても模倣には違いないが、馴染み方が違う。自分だけが気にしている違和感。違和感とも少し違う。適切な語彙が無いのか、ことばにすることが不可能な機微(機微!)に触れているのか。

 

大学で石を削っていた頃、K先生から吉本隆明の話を聞いた。対談の本も借りた。言葉として表に出た時点で、どうあってもはじめに抱いた感覚と齟齬が生じる。

これは記憶がある限りの昔からずっと考え続けていたことで、未だ染み付いている己と世界との境界線の感覚。この感覚についても、この言葉では少しも表せていない。

 

だから先ほどの違和感についても、全ての物事において言葉にすることは本当の意味では不可能なのだとすれば。もう既に、はじめに言いたかったこととずれ始めている。

あとは『事実を述べているだけ』という自己評価への信頼の無さったらない。

 

ということで、半年以上一年未満の間通っていたメンタルクリニックへの通院をやめた。電話で意思を伝えるとアッサリ終わった。理由は聞かれなかった。理由を聞かれない可能性がじゅうぶんにあると予測しながらかけたくせに、少しだけ寂しさに似たものを感じているのが浅ましくて仕方がない。自分のそういうところは嫌いじゃない。

 

精神状態を点数で表すことがとにかく苦手だった。メンタルを点数で表す基準は存在しない。100の状態って『躁』であって『良』とは限らないのでは?とか、安定を100とするなら不安な状態がデフォルトで安定している自分は100点なのか?とか、考えていたら数字なんて言えない。

 

「算数ができないから通院をやめました」と言うことにしている。これは事実を述べているだけだ。