真実のコーヒー

いいコーヒー豆を買った帰り道で野犬に遭遇する。

アパート名が刻まれた看板の下半分が錆に覆われているコーポなんたらと、おそらく今後も開くことのないたばこ屋のシャッターとの間、表通りと裏路地を繋ぐ細い道の奥にその動物はいた。


空は珍しく晴れ渡っていたが建物に挟まれた道は日中も暗く、四足歩行と天に向かってピンと尖った耳のシルエットが認識できる程度だった。私はそれが幻覚であることを知っていたので、躊躇いなく裏路地に入り込む。


裏路地は寒い。野犬はとうに四角いマンホールの形状に戻っていたので、一瞥して踏まないように気をつけながら駅に向かう道を辿る。幼少期に何度か行った児童書専門の小さな本屋が更地になっていた。


コーヒー豆が入った紙袋を持つ左手を握り込み、その存在が確かであることを何度も確認する。音が鳴る。質量がある。300グラムプラスパウチの重み。

 

 

数十分前、コーヒー豆を3種類買って店内で一杯飲み、衝撃を受けた。人生最高の味と言ってもいい。その証拠に、店を出てから存在しない動物や道をよく見るようになった。おいしいものには幻覚作用がつきものだから疑問は全く無いのだが、帰路に往路の倍近い時間を要していることには少しばかりの落胆を抱く。


かれこれ20分ほど駅までの道を彷徨っている。もう少しで駅に着くだろうと思ったところで見たことのないコンビニを発見する。また道を間違えたらしい。

スマホの時刻表示も3分戻って7分進むのを繰り返しているから正確な所要時間はわからない。ふつうなら焦るだろうが、今日は他に予定もないので問題ない。ゆっくり帰ろう。

 

 


そういうことがあって、何とかたどり着いた家で後日おいしいコーヒーを飲んでいる。本当にいい豆だ。

 

もしかすると、そういうことはなかったかもしれない。