これが本性であるものか

道を歩いていた。

悲しいことに、この時刻にこの道を通りがかると見かける野良の黒い猫を今月に入ってからめっきり見なくなった。白い球体をいくつかくっつけたような犬は相変わらず見かける。

 

道を歩く。帰路には往路ほどの不安がないから一人言も筋の通ったものになりやすい。横断歩道の手押しボタンと電柱の間のわずかなスペースに虫が縮まっていた。そこでの越冬は厳しいだろうと思う。

 

 

ここまで書いたところで落としていた視線を電車の窓の外にやる。完全に降りるべき駅を通り過ぎている。都会の要素がひとつもない田舎で。もうこんな架空の出来事を綴った文章はやめにしよう。

いや、最近白い犬の散歩は見かけるし帰路の方が弁が立つのは事実だからまるっきりの嘘というわけではないのだけれども。

 

 


調べたところ20分後に自宅に帰れる便が来る。ベンチでブログの続きを書いていたらアナウンスが入って、遅れが発生したため50分後になるらしい。誰かに死んでほしい。誰かとは私だ。


寒空の下で旧式のiPadを叩く愚か者を見かねた駅員が待合室に案内してくれた。待合室には次の便を待っている先人たちが数名いた。数人と目が合った瞬間、(まったく予期していなかった)病気を発症してしまい踵を返した。待合室と反対側の通路に腰を落として呼吸の精度を確認する。

 


そしてまた数行書く。寒さと悪い体勢に足が痺れてきた。そして何より悪いことに、本当に悪いことに、私はこの自業自得で片付く一連の苦痛に楽しさを見出している。


常日頃から己の不注意と病的な自意識に飽き飽きしながら幾年を過ごし、ようやく文章化という形で発散の方法を見つけたつもりでいたが、これでは因果が逆転してはいないか。文章に“できる”不注意由来の事態を『書き起こせる』と安堵している、その可能性がよぎった。いや、確実にそうだ。少なくともそういう側面が自分の中に存在するのは間違いない。

 

 

電車はまだ来そうにない。

来いよ。なんなら来たことにすればよかった。なんとなくトーンダウンしたところに電車が来たらとりあえずオチがつくだろうに。

このブログは反省史でも後悔記でもない。ただ自分のことが好きで仕方ない人間が自分のことだけを考えて、どういうわけだか恥ずかしげもなくそれを自分以外の人間に見せようとしている蛇の足だけをかき集めてきた塊なのだから。

 


ああ電車が来た。

来たってば。本当に来たよ。来た。そういうことでいいじゃない。ただめちゃくちゃに足が痺れている。立ち上がったら足全体がえらいことになるやつだ。かれこれ40分は座り込んでいたから無理もない。

なんだよ視線に反応して動けなくなる病気って。自意識の肥大化にも限度がある。人見知り小学生時代から何も成長していない。

 


アナウンスが聞こえる。今度こそ本当に電車が来るらしい。立ち上がって改札を出る。足の裏が貫かれるように痛い。