最近の不注意

もう大人なのに、風呂でシャンプーが目に入ってのたうち回ることを幾度となくやってきた。誇張ではなく本当にのたうち回っている。泣いてもいる。

 

それが原因ということもないだろうが、ドライアイだ。そしてしょっちゅう目薬を失くす。

先日買ったばかりの目薬をまた紛失したので、衝動に任せてツイートする直前に『お前は今まで失くした目薬の数を』で検索した。

2件の投稿が出てきた。安堵と悔しさが等しく生じる。これこそが人間味。

 

夕方の休憩中に変な体勢で寝ていたら金縛りにあった。うつ伏せの首を押さえつけられている感触もある。

 

夜になったら咳が止まらない。7月末にようやく丸一日自由に動ける休暇が取れる。シャンプーをしてからずっと左目が痛い。

だから僕はメンクリをやめた(前後文脈無し)

曇り

 

サボテンが植った鉢4つと、カーテンレールに取り付けられたサイズ違いの裸電球が11個。
そういった内装のカフェに来ている。

 

消しては戻してを繰り返していたアプリを改めてインストールする。このアプリは消してもすぐに元の形に戻る。だからきっとまた消すことになる。

 

ある一つの考え方について、を考えようとした時。頭の中では同時に言葉の揚げ足取りが始まってしまう。言葉で表現できることの限界(ここで主語を忘れて自らに揚げ足を取られる)に打ちのめされている。

 

『打ちのめされている』は自分の言葉じゃない。あまりに淀み無く締めくくりを務めたこの言葉はどこかで見た表現を模倣している。

 

他のすべても模倣には違いないが、馴染み方が違う。自分だけが気にしている違和感。違和感とも少し違う。適切な語彙が無いのか、ことばにすることが不可能な機微(機微!)に触れているのか。

 

大学で石を削っていた頃、K先生から吉本隆明の話を聞いた。対談の本も借りた。言葉として表に出た時点で、どうあってもはじめに抱いた感覚と齟齬が生じる。

これは記憶がある限りの昔からずっと考え続けていたことで、未だ染み付いている己と世界との境界線の感覚。この感覚についても、この言葉では少しも表せていない。

 

だから先ほどの違和感についても、全ての物事において言葉にすることは本当の意味では不可能なのだとすれば。もう既に、はじめに言いたかったこととずれ始めている。

あとは『事実を述べているだけ』という自己評価への信頼の無さったらない。

 

ということで、半年以上一年未満の間通っていたメンタルクリニックへの通院をやめた。電話で意思を伝えるとアッサリ終わった。理由は聞かれなかった。理由を聞かれない可能性がじゅうぶんにあると予測しながらかけたくせに、少しだけ寂しさに似たものを感じているのが浅ましくて仕方がない。自分のそういうところは嫌いじゃない。

 

精神状態を点数で表すことがとにかく苦手だった。メンタルを点数で表す基準は存在しない。100の状態って『躁』であって『良』とは限らないのでは?とか、安定を100とするなら不安な状態がデフォルトで安定している自分は100点なのか?とか、考えていたら数字なんて言えない。

 

「算数ができないから通院をやめました」と言うことにしている。これは事実を述べているだけだ。

四条大橋をよじょうおおはしと読んでいた時期がありました

歯痛がある。

歯痛。カタカナで書くとMARETUの曲っぽい。シツウ。金麦が沁み続ける歯茎。

ということで最近はMARETUの新曲のみにとどまらず断続的なふらつきにも見舞われており、こと歩行中に関しては永続デバフをもらった気分で生活している。

 

週休0日と型を失くした生活リズム、睡眠下手とが合わされば文明開化の音もしない。明確にしておきたいことだが不摂生はダサい。こうして不摂生をわざわざ書き起こしていることで不摂生のダサさに特大バフをかけている。さらにこうやって「不摂生が/それを発表することがダサい」と言うことで逆に何かの立場を確立させようとしているとかでもなく、ただ単純にしょうもないと心から思っている。

 

しかし避けようにも週休は0日だし働く時間帯にはばらつきがある。昼夜問わず終わり方についてのことが過る頭は身体以上の働き者で、アイシナモロールを見ては泣き、シャニマスのグレ4⇔5を行き来し、アイシナモロールその他のぬいぐるみを抱きしめては虚脱の一途を辿っている。

 

先日、京都土産に頂いたキュートなクッキーの箱を開けようとカッターを振り回していたら、左手親指の第一関節に赤く細い橋が架かった。これを刺傷小橋と名付けます。

 

五香粉(ウーシャンフェン)とホワジャオは声に出したい

曖昧な直方体の豚バラ肉を煮込んでいる。ちょうど日付が替わるのと同じタイミングで黒い汁が沸き立つ。生姜がなくて傷みかけの新生姜を入れたり、長ネギがなくて傷みかけの小葱を入れたりしたがなかなか悪くない匂いがする。台湾の屋台だ。台湾行ったことないけど。

 

ここから0時50分までは赤子が泣いても蓋を取らずにじっくりコトコトを見守るのに徹する。実食は明日だから歯磨きを済ませてしまおうと洗面所に向かった。

 

歯磨きやら筋トレやらをしながら意識は鍋に注いでいる。なんというか、そう、吹きこぼれている気がする。

普段手の込んだ料理などしないから、時間をかけて煮込む料理の調理工程の正解がわからない。小刻みに蓋を震わせながら脂ぎった汁を放つ鍋を見ていると不安が押し寄せてくる。

 

赤子泣いても云々とはいうが赤子が泣いたら蓋のことを気にしている場合じゃなくなるんじゃなかろうか。腑に落ちない教えの代表だ。

その点煮込む様子を『コトコト』と表現するのは果てしない風情を感じる。すてきな擬音ランキングをつくるとしたらチャンピオンの座はまず間違いなくコトコトが獲る。               

 

煮込み開始から20分。鍋肌(外側)を伝う汁に恐怖を抑えきれず、火を止めたうえに蓋も開けた。

 

すごくおいしそうな角煮があった。すごくおいしそうだったのですべての不安が消え去った。

吐瀉物そのもの

「キリが良いから」

無感動に液晶をタップし続ける指をどうして止められないのかわからない。

 

目当ての黛冬優子はすでに完凸している。ゆえに引く意味はない。完凸してからさらに150連は引いている。いま煌びやかな演出とともに7人目の黛冬優子が画面上に現われて、すぐ消えた。働かない頭と過剰に働き者の指によってひたすら画面が輝き続けている。

 

来たるべき七草にちかPUおよび芹沢あさひPUに向けて、石は有償無償問わず無駄撃ちすべきでない。斑鳩ルカPUガチャの吐瀉物みたいな結果を忘れたわけではないのになぜこの指は動き続けているのか不思議でならない。そういえばここ最近右手の皮膚が著しく薄くなっており常にヒリヒリしている。

音楽映画読書コメディ

クレーの絵が好きだ。理由はかわいいから。『双子』を生で見たときなんかはかわいさに打ちのめされてしばらく足元がふわふわしていた。

 

サカナクションというバンドについて。未来永劫大切であることが確定しているのでここ数年に関していえばもはや好き嫌いの次元に存在していないのだがそれはともかくとして、Kleeという曲がある。Kleeには、クレーの絵を見て落ち込むという歌詞がある。『魚図鑑』の付録冊子で「クレー」は「休みをくれー」のもじりであることが明かされており、これを読んだとき何に対してというわけではなしに「ああ、こういう温度でいいんだよな」と感じ入ったのを覚えている。

 

僕がサカナクションを好きであることとクレーの絵を好きであることそのもの自体に関連性はない。それぞれに対してそれぞれの道筋を辿って、たまたま交差することも当たり前によくあるというだけの話。

あさひはすぐ来た

以前の葬式で、数珠の代わりにつけたパワーストーンブレスレットをいたく気に入り日頃から着けるようになった。

 

近頃はとめどなく体調を崩しているが、これが風邪なのか花粉症なのか黄砂吸い込みフェスタなのかわからない。近ごろ自分を好意的に捉えるためにやった行いといえば、友人各位の好物と苦手な食べ物を表にまとめたことくらいだ。

 

何も書けなくなってきている。何も書けない。書くことがないわけではないのに手が止まり続けている。

 

そういえば飲み会があった。酔っていない風を装ってまっすぐ歩くことを趣味にしてもいいなと思った。何せ酔っているものだから、実際にまっすぐ歩けているか否か正確な判別はつかない部分がミソだと思う。

 

飲んだそばから嘔吐するようなこの上なく楽しい飲み方は、一人きりのときにしかしないと誓っている。そういう飲み方は日中の己が失言への自責、あるいは(愛を込めた表現としての)クソ映画とともに在る。

 

あとシャニソンを始めた。ゲームの進め方に関してはシャニマス同様わけがわからない。早く七草にちかに出会えるといいなと思う。