道を歩こうね

たのしい仮想日記

『つねに』『すでに』?

おこがましいことに若干落ち込んでいるっぽいのでどうにかこれをエネルギーに変換したい。

 

 

無意識に書いてしまったが『落ち込んでいる』というと実力以上を期待していたことになるので恥ずかしい。

恥ずかしいと感じていることも恥ずかしい。どうにかこの表現が飛び出すのを避けたい。ひとまず『元気がない』にしておく。

 

『元気がない』、しっくりくる。

 

落ち込んでいるという言葉は、今となっては手出しできる状態でない過去のことを見つめてそれを解決するでもなく次を考えるでもなく停滞している状態を連想させる。

 

今回の仕事がかなり芳しくないことを察知した瞬間は確かに少し気持ちを落としたが、2秒後に次はどうすれば良いかを考えだした。

落ち込んでいただけで落ち込んでいるわけではない。

 

元気がないので無意識に本意ではない言葉を使ったにすぎないし、元気がないので落ち込んでいるという言葉から被害妄想じみたイメージを連想する。

 

よく考えてみると無意識に本意でない言葉を使うのは元気なときも同じだった。

つまり、

既に胃の調子が悪い

また目的の駅に着く直前に書き始めてしまった。

 

本を読むか仕事をするかブログを書くかの3択を弾き飛ばしてReebokアプリでセール商品を見漁っていたらいつの間に目的地の二つ前だ。意味がない。このブログを書くのだって先の3択の中で圧倒的に最も意味のない行為ではあるのだけど。

 

時刻は22時。帰宅ではなく仕事場に向かっている。

スケジュール管理を間違えて明日の搬入まで寝ずの作業に突入する。

こういう事態になるのは珍しくない。

学生気分が抜けていないので文化祭前みたいだという高揚感がまだほんの少しだけある。もう学生の元気な身体ではないから作業が全て終わった頃にはしっかり体調を崩すのに。

 

更に身体が老いていって高揚はおろか徹夜が命に差し障ることだってあるかもしれないから、まあ楽しめるうちに楽しんでおこう。でもスケジュールは正しく組みたい。

 

そういえば何で文化祭前みたいだって思うだろうか。文化祭前にクラスの出し物の為に居残ったことなんかないのに。

■■□■通路■■□

アルバイト終わりのちょうど良いタイミングに上映していたので、チェンソーマンの映画を観に行った。

 

・漫画をはるか昔に読んで、好きだった気がする

・入場特典で設定資料の冊子が貰えるらしい(設定資料と冊子が好きだ)

・挿入歌が好きな曲だった

・しばらく行っていなかったので映画館に行きたい

理由付けも十分に済ませた。

チケットは前日に取ってある。

クレジットカード情報を入力している時の気持ちっていうのが、面倒さともう一つ何かあるような気がするのだけど、何も思いつかない。

 

 

映画館が入っている商業施設に着いた。

上映時刻の10分前、レストランのフロアからエスカレーターで昇っていくと視界が徐々に暗くなる。映画館に来たという意識が強くなる。軽く鼻を患っていたのでポップコーンの匂いはあんまりしない。

 

映画館のロビーは必要以上に広い感じがする。

尿意に関して強迫の気があるのでドリンクは買わず、腹は減っていたのでポップコーンを注文した。

映画館でポップコーンを食べるという行為に対する憧れがいつまでもある。別に食べ物としてはそこまで好きなわけではないのだけれども。

 

映画館のサイトから予約ページを開き、隣席が空いていることを確認、ひと席開けた隣が埋まっていることを確認。右手は通路。

このままいけば両脇を空けて鑑賞に入れそうだと安堵する。

 

チケット番号を確認して巨大スクリーンが聳えるひときわ黒い空間に入る。知らないアニメ映画の予告編が放映されていた。

 

さすがに公開直後の人気作ともなると、地方のレイトショーで翌日が平日でもそれなりに客がいた。それなりの数の色々な人間がいるという以上の感想は抱かなかった。

 

 

映画は面白かった。

漫画を読んだことがあるとは言いつつストーリーの細かい部分に関してはうろ覚えだったので「ここでこの人出てくるんだ」と色めきだったりした。

当たり前なのかもしれないが皆いい声だった。アニメや演劇ってたまに見ると皆いい声だなあと思う。

 

アガる主題歌に合わせてPVみたいな絵(この表現なんだか破綻してそう)が動いていると、テレビアニメを見ている気持ちになる。

トラペジウムを観た時も同じ気持ちになったのを思い出した。

 

また音楽がすべて良く、なかでも刃渡2億センチ全体推定70%解禁editはボムの声が組み込まれた瞬間ポップコーンを取る手が2倍速になるくらいテンションが上がった。

 

あと漫画だと気にならなかったギャグシーンの緩急がやっぱり嫌だった。声がつくと駄目なのか、これについては子供の頃から一切克服できないまま一生を終えるのかもしれない。

 

 

そしてエンドロールの後にCパートみたいのがあるととても嬉しい。無かったときにがっかりするんじゃなくあったときに喜ぶ方がいいと思う。

今回は喜んだ。

秋服というものがあるとするならこれが該当するのだ

気温が下がってきた。

夏を惜しむ気持ちは一切なく、冬が来ないでほしいという気持ちに満ちている。ずっと秋が居てくれたならこの世の憎しみも疲れも削減されるだろうに。

 

 

古着屋でシャツを買った。

黒い薄手の襟付きシャツで、織り方が変わっているのか手触りが特殊だ。何というか、くしゃくしゃしている。卒業式や入学式で在校生が薄紙を使って作る花飾りみたいな手触りをしている。

 

珍しい買い物をした、と思う。

その古着屋に行くのは初めてだったが、何かのイベントに出店していたのを見かけて店主の人と話したことがあったので、何となく訳知り顔で会釈などしながら入店した。

 

シャツは色と柄の多さで選ぶことが多い。賑やかな色と柄のものを数点持って店内を徘徊し、鏡の前で羽織ったところ「何か違うな」と思った。

 

すると店の人に「これ似合うと思うで」と例のシャツを渡された。袖を通すと完全に似合っていたので「買うね」と言った。

 

やっぱり試着中に店の人も「何か違うな」と思ったんだろうか。何なら服を持って徘徊している時にはすでに「何か違いそうだな」と思っていたのだろうか。

 

きっとそうだ。僕が赤いシャツを羽織ってから例のシャツを差し出すまでの速度が尋常じゃなかったもんな。慧眼。

何にせよ良い買い物ができたので満足している。

パッヘルベルの蜘蛛ン

駐輪場に行くと自転車に蜘蛛の糸が張られていた。

駐輪場の屋根を支える柱からハンドル、ハンドルから前カゴに延びている。

何度か指を振って断ち切った。断ち切った指の腹にざらついた感触が残り、嫌な気分になったが、それも直ぐに消えた。帰る途中で牛乳を買った。


翌日、駐輪場に行くと糸が張られていた。柱からハンドル、ハンドルからカゴに延びている。

指を振る。

指にざらついた感触が残り、何とも言えない気持ちになった。感触はそのうちに消えた。コンビニでサラダを買って帰った。

 


翌々日は自転車に乗る用事が無かった。

 


翌々々日、駐輪場に行くと張られていた。柱とハンドルとカゴ。

指の感触がしばらく残った。目薬を買って帰った。

 


翌々々々日、駐輪場に行くと自転車が無かった。

そういえば停める場所を変えたんだった。裏手に回ると自転車がある。

糸は張られていなかったが、ハンドルの上で蜘蛛が歩いていた。

糸、張らないんだ。

夜の珍しくないアレ

眠らなければならない。

身体から汗が出ているのがわかる。

液晶がまぶしい。遍く布が煩わしい。

ひと目に触れる己の存在と、内心の殆どを占める私の所在が噛み合わない。ゆえに止まらない。

 

眠さと暑さと眠れなさと疲労的な何かのマリアージュでこんなことになってしまった。

少し正気が戻ってきた。

自分はいつまで“これ”なんだろうかと度々思う。

おそらく変化はあれど根幹については死ぬる時まで替わることがないのではないかと応える。

 

この日記でもないやつをひと通り打ち込み終えて、公開ボタンを押さずに眠るという選択ができていたのに。今までは。

 

焦りが若さの症例っぽくてイラつく。

尖りとかであってほしくない。こんなに削れているのに、どこかで角度を間違えたのか。尖りが削りでどうのこうのという表現から、表現を試みた痕跡が見えて、焦る。

 

額面では矛盾だし、信じてもらうことは難しいだろうが今のメンタルはとても落ち着いていて、ただ眠気と暑さだけがある。

昨日筋トレをしたから筋肉痛もある。

 

 

そういえば死ぬ気を浮かべる思考を辿るくらいなら殺意で生きたほうが健康的だという。

 

別にどっちも健康的ではないと思う。何でも比較で自分の主張を通そうとするのが善い(この『善い』の解釈は私の中にしかない)こととは思えない。

 

いま、寝床に小さな虫が這っているのを見つけて、指で潰した。殺意で生きているわけではないのに。

眠く、暑く、潰しても動く虫を見たせいで全身が痒い。

眠れるかどうかは問題ではない。

ただ朝になればいい。

正常値

町中や電車で不可解な物を見つけると疑心暗鬼になる。

 

帰りの電車では、壁の隅の方にお守りが貼ってあった。

交通安全意識でやっているのとは明らかに異なる、落とし物らしい学業守が雑にテープで貼られていた。

 

確かに広告掲示物に隠れて見えにくい場所にある。とはいえ、視界の隅にでも映れば数秒は釘付けになるような違和感を放っている。紺色のお守り。

 

しかし誰も見向きもしない。ちらりとも見ない。

 

これは幻覚だ。

誰も気づかないものに自分だけが気づいていると、いう優越感に浸る、という機微を戒める為に見せた幻覚に違いない。誰かあるいは自分が見せている。浸ってなるものか。

 

というように疑心暗鬼に陥る。

 

まあ、『車両内の壁に紺色のお守りが貼ってあった』という事例は体験したことがないが“こういうこと”は起こる。昨日は電柱に小さい黄色い扉が付いていた。